伊佐千尋氏逝く書いて飲んでゴルフしての88年だった
 

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週刊ゴルフダイジェスト 2018/03/06号
2018/03/05更新

伊佐千尋氏逝く
書いて飲んでゴルフしての88年だった

 伊佐千尋氏が亡くなった。伊佐氏にはいくつかの「顔」があった。

沖縄戦で病理学者の義父(実父は画家・八島太郎)を失いながら、戦後、敵国の米軍基地に職を得ざるを得なかった。アンビバレンツな境遇で、米兵殺傷事件の陪審員となり、その体験を描いた『逆転』で第9回大宅壮一ノンフィクション賞受賞を機に作家へ転身。その終生のテーマは1943年以来、執行停止している日本の陪審員制を復活することだった。そして冤罪事件を生みやすい日本の司法制度を指弾した(『司法の犯罪』『島田事件』『舵のない船 布川事件の不正義』)。

陪審員制を支持する弁護士らの仲間も得て、欧米の法律書を読み込む練達の英語力の持ち主でもあった。語学の才は漢詩にも及び、『邯鄲の夢』『洛神の賦』などの著書もある。

大酒家であった。スコッチ、ジン、泡盛、マオタイ酒など蒸留酒から、日本酒、ワインなどの醸造酒の造詣も深かった。酒を飲むときの姿勢は生き で飲むこと。水割りなどは酒に失礼だと怒った。自宅居間、書斎の戸棚にはそんな酒が所狭しと並べられていた。編集者など自宅へ招き入れ、邦子夫人の手料理を肴に飲むのを無上の喜びとした。テーブルにはドラえもんのポケットよろしく、次から次へと違った酒が並べられた。当方は30年前に執筆の依頼でご自宅へ伺ったのだが、「僕は最初に会う時は仕事の話はしないんだ。まあ飲みなさい」と。出されたのは氏自身がカクテルしてくれたマティーニ。映画でしか知らなかったその酒で、当方、腰を抜かし、帰宅した折には片方の靴が脱げなくなっていた。それ以来、担当者として何百回となく酒食をともにしていただいた。

合理的思慮の持ち主であった。居酒屋で突き出しが自動的に出てくると、「頼んでない」と突き返す。ゴルフ場のランチでも蕎麦に天ぷらなどついてくると、「おれは蕎麦だけ食べたい。値段を上げるため、ゴルフ場側の都合だけ考えるんじゃない」と一喝。当方が「まあまあ」となだめると、「それが日本的曖昧さの予定調和を生むんだ」と怒られた。

最後の「顔」はゴルファーとしてである。原点は沖縄米軍基地が運営していた泡瀬ゴルフ場(正式名・アワセメドーズGC)。後年、全米オープンに勝つオービル・ムーディや炊事兵だったリー・トレビノが兵役でいてその交流、賭けゴルフ。また稀代の賭けゴルファー、左小指の欠けた宇良宗哲氏の"死闘"など沖縄ゴルフ梁山泊といったところ。氏はその情景を『フェアウェイのギャングたち』『トレビノの破天荒ゴルフ人生』(翻訳)に活写した。

また小社刊の『ゴルフ上手は、ことば上手』では、名手・達人の言葉を原語で抜粋し、解説を加えて、氏の長いゴルフ人生の集大成だったと思う。書いて、読んで、飲んで、プレーに全力投球された88年ではなかったろうか。自宅で最期の刻を迎えられたのは、氏の本望であったろう。

ご冥福をお祈りします編集委員・古川正則

 
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