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週刊ゴルフダイジェスト「BACK9」の内容を、バックナンバーとしてほぼそのまま転載しています。
内容は紙雑誌掲載当時のものですので、詳細の状況等は変わっている場合があります。ご了承ください。

週刊ゴルフダイジェスト 1/22号
2002年更新
アマチュア主義貫いた日本ゴルフ界の至宝
日本アマ最多の6勝、中部銀次郎氏逝く
 昨年12月14日、ゴルフ界を震撼させる訃報が師走の街を走った。弱冠20歳で日本アマ初優勝後、17年で通算6度制覇の伝説的な名人、中部銀次郎さんが亡くなった。還暦まであと2カ月の若さだった。

 東京中野・宝仙寺で同18日通夜、19日葬儀・告別式が行われ各界から大勢の弔問客が詰めかけ、突然の逝去を悼み別れを惜しんだ。万感の思いこもる「普光院殿球譽銀海勝道大居士」との戒名は中部さんの偉業を顕彰してやまない。

 昨年2月、小社より上梓した自著『わかったと思うな------中部銀次郎ラストメッセージ』などからおもな球歴を抜粋してみる。昭和17年、山口県下関生まれ。生来病弱だったため父・利三郎氏の勧めで小学5年からゴルフを始めた。この折受けた厳しい訓育が生涯、中部ゴルフの底流をなしたといわれる。

 下関西高校2年のとき、特別推薦で関西学生選手権に出場、いきなりメダリストに輝き天才少年と謳われた。60年、18歳で日本アマに初挑戦しベスト4。以降87年まで、利三郎氏の喪に服した3年間を除き、連続25回出場と息の長い競技生活を続けた。日本アマ6勝は空前絶後の大記録だが、不断の鍛錬と試合に傾けた情熱の持続もまた賞賛に値しよう。

 全盛期には「プロよりも強いアマ」と言われ、事実、67年の西日本オープンではプロを圧倒して優勝している。開催コースが子供のころ利三郎氏のお伴で歩いた門司GCだったのも奇しき因縁だったかもしれない。アマチュアゴルファーであることを貫き通し、無垢なダンディズムに殉じたのはなぜか。

「私は、アマチュアらしさ、という言葉が好きだ。プロ志向の傾向が強い中で、あえて私は、アマチュアらしいゴルフというものを考えてみたいと思っている。そして、ピュアなアマチュアゴルファーがもっともっと増えて欲しいと願っている」との述懐にひとつの答えを見出すことができるのではないか。

 往年は孤高の佇まいを堅持し近寄りがたい雰囲気を醸していた面もあったといわれるが、競技生活の晩年に入る80年代以降は酒を愛し、人を愛し、その両方が満たされれば、ゴルフ談義に花が咲いた。

 たとえば、とある小料理屋で居合わせると「ちょっとそこの壁際に立ってアドレスしてみて。うーん、お尻が壁から1センチ離れてるな、もうちょっと前傾をね」といった具合に、見えない位置のはずなのにお見通しの即席レッスンがいつ果てることもなく続き、愉快な酒がまた酌み交わされたものだ。

 中部さんと選手時代から親交の深かったトップアマの内藤正幸さんは「とにかくマナーには厳しい方でした。洗面所では、髪の毛を残さないよう、自分が使った後は洗面台を拭くように注意されました。また“格好よくゴルフをしろ”とも言われた。ボールがディボット跡に入っていても顔色ひとつ変えず何ごともないように淡々と打つんです。OBしてもいちいち騒ぐなとか……」と思い出を語るが、中部さんい関するこういった逸話は枚挙にいとまがない。

 自らの苦い経験と冷徹な検証に基づくアドバイスの数々はいずれも正鵠を射ており、折節語り継いできた言葉を集めた著書も何冊か出ている。前掲の『わかったと思うな』もその1冊だ。「とってもビックリしたこと、それは1960年、世界アマでアメリカのメリオンGCに行ったときね。20歳のニクラスをナマで見て。18番で3パットしたから、なあんだと思ったらスコアは66。これはもうショック。とっても嬉しかったこと、それは84年のやはり世界アマ。会場はロイヤルホンコンGC。ぼくは監督だったんだけど、そこで団体優勝した。これは嬉しかったなあ、泣けた!」

 そんな思い出話を肴に飲んでいた夜もあった。入退院を繰り返しながら足掛け3年にも及んだガンとの闘病生活。「いっぺんタイガー・ウッズを見てみたかったな」と言い遺して永久の眠りについたという。合掌。

[訂正]1/8・15号バック9の福嶋晃子選手の記録を訂正致します。正しくは昨年の国内予選落ち回数は0、トップ10入り4回でした。

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