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週刊ゴルフダイジェスト「BACK9」の内容を、バックナンバーとしてほぼそのまま転載しています。
内容は紙雑誌掲載当時のものですので、詳細の状況等は変わっている場合があります。ご了承ください。

週刊ゴルフダイジェスト 10/28号
2003年更新
日本プロゴルフ界の草創期を代表、コース
設計家としても知られる安田幸吉氏が他界
 冒頭のグラビアでも紹介したが、日本プロゴルフ協会初代理事長の安田幸吉が、去る10月6日、肺炎のため、東京・目黒区の病院で死去した。98歳だった。

 安田幸吉は明治38年、東京府荏原郡駒沢村の農家の四男に生まれた。当時の駒沢村は呑川という小川の周りに僅かな水田と畑があるだけで、高低差のない雑木林や竹林が広がっていた。

 大正2年、「のどかな駒沢に突如ニューウェーブが押し寄せてきた」と安田は、自伝『ゴルフに生きる』で書いている。生家から200メートルの場所に東京ゴルフ倶楽部駒沢コースができたのだ。現在の駒沢オリンピック記念公園の場所にあたる。2頭立ての黒い馬車で、皇族、華族、財界トップ、外国人らがやってきた。小学四年生の安田は、いつしかそこでキャディ見習になっていた。小遣い稼ぎより行儀見習のつもりだった。仲間に浅見緑蔵がいた。

 大正6年、小学校卒業と同時にキャディマスターに。給料は当時としては破格の20円。この頃、ゴルフルールの日本語訳に尽力した大谷光明の専属キャディとなる。大正9年、来日した米国人プロ、トム・ニコルからゴルフクラブの造り方を教わり、後の安田ゴルフ製作所を立ち上げる技術を身につけた。昭和天皇に献上のパターを造ったのもこの頃だった。17歳、お客との同伴プレーを許される。今で言うプロ転向だ。20歳のとき、赤星六郎が米国から帰国、本物のゴルフに触れ、小柄ならインターロッキング・グリップがいいと教えられ、生涯変えることがなかった。

 大正15年、第1回日本プロでは、優勝が宮本留吉、安田は4位。昭和2年、第1回日本オープンでは、優勝はアマの赤星六郎、安田は5位だった。昭和4年、宮本とハワイオープンに招待される。日本のプロ初の外国遠征だった。宮本13位、安田17位。この年、W・ヘーゲンらが来日、各地でエキシビションを行っているが、程ケ谷では安田は71、宮本が73、ヘーゲンは75で勝っている。

 昭和6年、宮本、浅見、安田で米国西海岸を転戦。昭和10年には戸田藤一郎を加えた4人で、約4カ月、42試合の長期米国遠征を行っている。

 実力的には互角と見られていた宮本が日本オープンだけで6勝しているのとは対照的に、「無冠の帝王」と呼ばれる安田は日本オープン3回、日本プロ2回、関東プロ3回と2位は多いが、不思議と勝負運には恵まれなかった。

「ゴルファーは勝つことよりも人間、礼儀だ」という東京ゴルフ倶楽部の気風に忠実すぎたのかもしれない。

 東京ゴルフ倶楽部が移転先の朝霞コースが軍に接収されたのを機に、安田は退職。中国・漢口のゴルフ場に渡るが1年で帰国、大阪で鉄工所を経営するも爆撃で焼失、終戦は栃木県小山の農場で迎えた。

 戦後は東京・溜池の練習場バーディ・クラブでレッスンの他、クラブ製作でも人気を集めた。皇居で現在の常陸宮様に教えたこともあり、昭和32年頃からはTVレッスンにも出演、当時は第一号だった。

 浮間ゴルフリンクス(埼玉)を皮切りに、数々のゴルフコースを設計。日本オープン開催の小樽CC、千葉CC梅郷ゴルフ場など50コース以上である。

「コース造りは庭造り、下手な人でも楽しめるように」が信条。柔らかい表情に見えて、プロには難しい設計という定評がある。

 昭和32年に結成された日本プロゴルフ協会の初代理事長には安田が就任したが、駒沢コースはプロの養成学校でもあった。彼の後を継いだ2代目、浅見緑蔵、3代目、山本増二郎、レッスンでお馴染みの小松原三夫も駒沢育ちだった。平成3年、勲三等瑞宝章、昭和44年、日本プロスポーツ功労賞、平成3年、文部大臣表彰。終身の東京ゴルフ倶楽部名誉会員だった。

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