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ゴルフ野性塾スペシャル
週刊ゴルフダイジェストの連載でおなじみ坂田信弘プロをご紹介します。ゴルフに人生に、悩めるゴルファーへのほんの一助として、過去の連載や単行本から抜粋しての掲載です。
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No57... 名人の境地について...(8/17)

枯れたゴルフとは何か
ゴルフにもいわゆる名人の境地があるのでしょうか。そして、枯れたゴルフとはどういうことをいうのでしょうか。

(名古屋市 50歳)


欲のあるうちは、枯れぬ

私の思う枯れたゴルフとは、意外性のないゴルフ。馬鹿力現象のなくなった夢の枯れ果てたゴルフ。コツンと打ってゆく計算出来る必然性のゴルフ。大欲を見ず、小欲に生きるゴルフ。

欲のあるうちは、枯れはすまい。私は渋いゴルフは望んでも、枯れたくない。枯れた時は、ツアーで闘える飛距離は消えているものと思う。渋さと枯れとは全く違うものであろう。

私は渋いゴルフといわれれば、嬉しい。枯れたゴルフといわれれば、引導を渡されたような気になってくる。渋さは技術。枯れは精神の衰え。ウッドでもアイアンでも、コツンコツンというゴルフ、要するに飛ばぬから曲がらぬ。曲がってもラフまで行かぬ飛距離。それがプロの私にとっては、枯れたゴルフというものである。

人それぞれに枯れたゴルフの意味は違うはず。私は枯れたゴルフはしたくない。枯れたくない。プロである以上、その願いは強い。

ジャンボ尾崎の前では、私のゴルフは枯れている立木のようなものではなかろうか。ジャンボの飛距離は、プロの中でも、憧れの距離である。ジャンボ尾崎の飛距離で、彼のOBの数が飛ばないプロと同程度の年に30個ほどでおさまっているという事実をみれば、尾崎は凄い奴、という気はする。ジャンボはアメリカのレベルを日本へ持ち込んだ最初の男であろう。私が尾崎の飛距離を持てばOB 60個はゆく

球というのは、飛ぶから曲がる。飛ばん人間が、OBを出していたら、その男は馬鹿。飛ぶということは、いいスウィングなのである。飛距離とOBとは相互関係にある点を認識する必要はある。尾崎にOBを出すな、刻めという要求は、大相撲の曙にケタグリ相撲をやれというようなものであろう。

人には、それぞれに型というものがある。それだからこそ、救われる面もそれぞれにあるはず。ジャンボが、ゴロ球を打ち始めたらOBは出ぬであろう。しかし、その時点でジャンボはセスナ機となる。

ゴルフの第一の武器は飛距離。プロの世界でも皆、飛ばすことに狂っている。狂わねば、勝てはせぬ。アメリカのゴルフがそれを教えた。

ゴルフは枯れたら、枯れ谷の中の試合でしか、勝てはせぬ。緑多き谷の中では、欲が勝利への旗印。私生活も枯れてはいかんと思う。枯れることが、一つの辿り着いた境地のように思われているが、人間とはそんなに欲のないものなのか。

私のプロゴルファー人生は、半分以上を過ぎた。しかし、終着駅はまだまだ先のもの。今、私はやる気十分。燃えさかって燃え疲れ、その後、トロトロ火で、なおも熱を出すゴルフをやりたい。私は今まで、不完全燃焼。燃える素材はあっても、酸素が不足している。私は自分自身に多くのものを求め、期待し、ウロウロしてきているが、今後もその生活は続ける予定。馬鹿は馬鹿なりに、出来得れば大馬鹿になって生きたい

次に名人の名称、存在ということですが、「位」というものはあっても、実際に、名人の価値ということになると、人それぞれの主観が決める問題という気はします。名人の境地も、明鏡止水というものが到達点なのか、限りなき煩悩の中での前進が名人の境地なのか、いずれかは、性格によるもの。プロゴルフ界では、私の知る限りでは限りなき前進が続けられているようです。

ゴルフの中で、思案すべきこと、それは、前進も後退も、上達も進歩も、すべてはゴルフという感覚が必要なのではということ。ひょっとして、前進のつもりが後退していたということもあるとは思えますが、それは私の運と思う以外に、何の収まりはありますまい。

人間は生まれた時、背負っている運の太さは同じ太さでありましょう。それを、削って細くしてゆくのか、太くしていゆくのかが、人生差という気はします。悔いはあっても、悔いを噛み返すような生き方はしたくないと思っております。