未来への扉 2008.8.7公開

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未来への扉 丸山茂樹プロと二人三脚のゴルフ人生未来への扉

キャディへの転機は大学2年に訪れた

小学生のころ、ゴルフ好きの父親に連れられジュンクラシックでトーナメントを見に行ったりしているうち、ゴルフにはまった。楽しんで練習しているうちに周囲の注目を集める立派なジュニアゴルファーになっていた。中学に進学すると、わざわざ齋藤のためにゴルフ部を発足させてくれるほどだった。当時はゴルフブームとあって、栃木県・氏家の小さなコミュニティではまさに小さなヒーロー的な存在だった。もちろんツアープロが目標になった。 関東大会などでの活躍ぶりと素質は、ジュニアゴルフ界の名門高校監督の目に留まり、水城高校(茨城県)進学。1つ上には片山晋呉プロがいた。高校でも全国大会で2位になるなど頭角を現し、いくつもの大学から誘われるなか明治大学に進学。「当時水城高校から初ということで明治にしましたが、強い選手は先輩の久保谷健一プロだけでしたから団体戦ではとても上位にはいけません。ゴルフへの気持ちが揺らぎました。そんな時、既に卒業してプロになった深堀圭一郎プロがキャディを探しているという話に手を挙げた。3年になったばかりだったが、大学を中退しプロキャディに転身。「その時点ではまだプロ志望でしたからキャディを仕事にするというよりツアーを体験できるというのが魅力でしたね」。

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レストランへの階段には、丸山茂樹プロのトーナメントでの思い出が並ぶ。

 深堀プロとの1年間のツアー転戦は、齋藤に大きな転機をもたらした。「自分から見ると深堀プロは凄い球を打っていましたが、それでも深堀プロはその年、シード権を失いました。上には上がいるというツアーの世界の層の厚さを感じさせられました」。ツアープロの世界の厳しさ、凄さを間近に見た齋藤はプロへの道を断念。しかし、中退した大学に戻るわけにも行かず、ゴルフには関わり続けたいとの思いを抱えながらも深堀プロのキャディを続けるわけにも行かないというピンチに立たされることになった。

丸山プロとの出会い

悩む齋藤の前に現れたのが当時深堀プロと行動を共にすることの多かった丸山茂樹プロ。「プロを目指すのではなくキャディとしてやっていくのなら」との誘いに3日間考えた末、専属キャディになることを選んだ。丸山プロと初めて会ったのは、深堀プロのキャディとして中日クラウンズに向う東京駅。「当時からスーパースターでしたが、もうオーラが違いましたね。見ているだけで引き込まれる何かがありました」。
当時のプロキャディは、コース上だけでなくマネージャー、ドライバー、トレーナーと1人で4役も5役もこなすのが、普通だったが、一通りのことは深堀プロに教わりながらできるようになっていた。「でも大将(丸山プロ)は違いました。お腹が空いたから食事に行きましょうとか明日早いので寝ましょう、という感じでいけたのが、大将には全く通じません。トーナメントの最中でも飲みに行ってホテルの戻ってからマッサージ。大将が寝るのは午前1時とかです。大将より1時間前に起きてるんですよ、といっても寝かしてもらえなかったですね(笑)。

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2002年、バイロン・ネルソンで米ツアー2勝目を飾り喜ぶ丸山プロと齋藤支配人。このとき齋藤さんは、本来のキャディがビザの関係で入国できなかったためピンチヒッターだった。

プロキャディとして毎週火曜日にトーナメント会場に入り、週末まで行動を共にする。それこそ丸山プロの奥さんより一緒にいる時間は長くなる。朝はプロよりも1時間前に起きてクラブを始めラウンドの準備を整え、コースでは、30kgにもなるキャディバッグを担いでアップダウンのコースを歩き、就寝は夜半過ぎ。その間の行動の全ては丸山プロのペースに合わせなくてはいけない。「コースでのキャディの仕事のポイントは、テンポ作りです。大将はリズムが早いしボールのところに着いた瞬間には次に打つ距離が分からないとイヤなタイプですからたいへんですよ。歩きながらメモを見て計算です。しょっちゅう間違えて怒られてました」。

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丸山プロが米ツアーで記録した「58」のスコアカードをモチーフにしたカーペット。コース名は、このスコアに由来する

8回の優勝と9回のクビ宣告

 齋藤さんがシーズンを通して丸山プロのキャディを務めたのは95年から5シーズン。この間、齋藤さんは「おまえなんか栃木に帰れ」と9回の“クビ”宣告を受けたという。「後になって考えれば、コチラも一生懸命にやっているのだから、と大将の言葉に素直にハイといえなかったのが原因です」「コースでは、プレーヤーとキャディの呼吸が一致した時、最高の結果が出ます。先ほど、テンポ作りが大切だといいましたが、それは一心同体になるということなのです。キャディがプレーヤーについていけなかったら試合で結果を残すことはできないと思います」。その象徴的なシーンとして齋藤さんの記憶に深く刻まれているのが、最終日に4位から逆転優勝した97年の日本プロゴルフ選手権15番ホールで下りのスライスラインを残したバーディパット。
 「優勝すれば10年シードの権利がもらえます。世界に挑戦したい。そのためには10年シードは是非欲しい。まさにそのパットが2人の願いを叶えるための勝負どころでした」。“カップ5個”という読みが一致した結果の迷いのないストロークは、100回打って入るかどうかの難関を克服、優勝を決定付けた。
 「叱られて辞めたのでは、普通です。我慢することは、丸山茂樹という天才のレベルについていくには、普通以上のことが不可欠のことだったと思います。そうでなければ、一心同体になるのは不可能ですから」。丸山プロの才能と齋藤さんの努力の結実が、8回の優勝、アメリカ進出という結果につながったのだ。
  夫婦よりも長時間行動をともにし、無意味と思われる時間を共有することも、そのすべてが生まれも育ちも個性も違う2人がプレーヤーとキャディという関係を『パートナー』へと昇華するために必要な過程だったのだ。「大将と行動を共にした5年間は、楽しかったの一言に尽きます。いまの私にとっては、大将がいてゴルフがある。むしろゴルフは大将のそばにいるためのオプションとさえいえるほどです」

齋藤 優希 
Saitou Yuuki
株式会社ファイブエイトゴルフクラブ取締役支配人。明治大学を中退し、深堀圭一郎、丸山茂樹プロの専属キャディのあと、丸山プロの父が経営する株式会社 マルエンタープライズが買収して始めた栃木県矢板市の「58ゴルフクラブ」に25歳で支配人に就任。8年で走行距離27万キロの愛車「ランクル100」は「キャディ時代のボーナスを元手に購入した」記念品。「動かなくなるまで乗る」という。家族は、妻と1歳半の愛娘・愛桜(あいさ)ちゃん。74年1月生まれ、栃木県出身。

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